華道則天門とは

◆開祖と華道則天門の歩み

華道則天門 茶華道 いけ花 伊奈波神社 岐阜市
高橋雲曹師の顕彰碑=善光寺境内

華道則天門を開いた梧竹軒高橋雲曹師は、文久3年10月11日(1863年)岐阜県本巣郡旧山添村曽井中島で、高橋瀬平氏(正風遠州流 第5世宗匠・萬松斎一風)の次男として生まれ、名は式二郎と称して、幼い頃から父に華道を厳しく教えられました。

 

岐阜県の代表的な生け花の魁けとして、華道界を歩むと共に漢学を学び、兄・瀬一郎と共に岐阜市へ出て、「岐阜日日新聞社」(現在の「岐阜新聞社」の前身)を起して新聞発行・経営に敏腕を揮い、今日の同社の基礎を築かれたのです。

 

一方、華道においては、厳父から教えられた流儀のほかに、‶投げ入れ”に特別の興味を持たれ、生け花の原点は自然と調和、そして‶侘(わび)”を表現することに着目されます。

 

ただ自然の美を遠くから眺めるだけでは満足せず、花咲く樹や草木を一瓶の中に凝縮して、「身近に楽しめる生け花」を実現するため、自ら山野を歩いて、そこにひそめる美しさを克明に踏査されたのでした。

 

父から伝承された技法を参考にしながらも、師が特に尊敬しておられた中国挿花の花書である袁宏道(えんこうどう)の著書『瓶史』に説く花論に傾倒されました。

 

自らが嗜んだ煎茶道の花に仮托した「詩・書・画」の世界・・・即ち、文人好みの生け花を表現するために、中国易学思想を背景として生まれた調和の原点、即ち「天・人・地」の三才の3段階による挿法を研究され、

「素材の自然出生に背かず、最も清新で、簡単に花器との力学的調和が完成したときに、はじめて本来の‶侘”が湧出する」と説いたのです。こうして、挿法は従来の定型化された流儀から脱却して、無定形化(自由花)を完成しました。

 

ときまさに明治31年(1898年)雲曹師35歳で、「大日本則天門華道」(現在の「華道則天門」)を創流されたのであります。これは雲曹師の座右の銘「人間万事須則天」(人間万事須らく天に則るべし)の中より「則天」の語をとったものです。昭和21年に「華道則天門」と改称し、現在に至ります。


華道則天門 茶華道 岐阜県 いけ花
高橋雲曹師の菩提寺である善光寺(伊奈波神社左隣)

 

以来、開祖の努力によってその真価がようやく世間に認められ、明治42年9月(1909年)大正天皇が(当時は東宮殿下として)岐阜市に行幸された時、本願寺西別院の御座所に、雲曹師の手によって挿花を生ける光栄に浴しました。

 

 

その後も、閑院宮殿下や政府高官が来岐の折ごとに、師の生け花がその宿所を飾って好評を博し、大いに面目を施したのであります。

 

雲曹師は、東京華族会館に招聘されるなど多忙な間を縫って、岐阜市や大垣市だけでなく、京都の泉涌寺・東福寺・建仁寺の山内に、また京都の女学校にも出張指導されました。

 


華道則天門 茶華道 いけ花 岐阜県 
高弟の碑の奥に、見守られるように師の顕彰碑があります

 

 

このように華道則天門が目覚ましく発展しつつあるとき、師は病に倒れ、その卓越した才能を惜しまれながら、大正14年1月(1925年)62歳で帰らぬ人となられました。

 

なお、師の教えに「挿花の主旨」「挿花の十宜」「挿花の十格」「挿花講習の十徳」「挿花配合故事集」、大喪礼に哀意を表わす「涼闇挿花百種」などがあり、現在も当流の教えの基本として使われています。

 

 

写真のように、梧竹軒雲曹師の顕彰碑が岐阜市伊奈波善光寺境内にあります。

 

師の華道則天門創始の偉業を称え、高潔なる人格を追慕して、没後七周年に建てられたものです。

 

また、後年斯道発展に貢献した功労者の顕彰碑が、それぞれ同境内に建立されており、現在もその徳を慕って多くの人々が訪れています。